「おじさんの横顔、かっこいいなぁ」中岡さんが農業に目覚めたきっかけは「田舎のおじさん」だった。
中岡さんは専業主婦の母と消防士の父という非農家の家庭に生まれたが、祖父母が島根県の津和野町で椎茸やわさびなどをつくっており、農繁期には家族みんなで田舎に帰って農作業を手伝っていた。その時、農作業に勤しむおじさんの姿が輝いて見え「こんな年の取り方をしたい」と憧れ、その手段として農業に興味を持つようになった。
高校から庄原の県立農業技術大学校に進学。卒業と同時に広島市の「ひろしま活力農業経営者育成事業」に研修生として参加し、1年間の研修を経て22歳で独立。現在地で農園主となった。
「田舎のおじさん化計画」に向けて第一歩を踏み出したわけだが「一つ残念なのは、祖父母が守ってきた土地で就農できなかったこと」だと言う。島根の土地を継いでもビジネスとしての農業は成り立たないと、学生時代に先生からも念を押された。農業で生活していくための選択だった。「僕らには僕らの生活があるし、それを犠牲にしてまでご先祖様うんぬんというのもなんか違うと思うから。ただ、ゆくゆくは自分が祖父母の土地に関わって、粗末にすることだけはないように、守っていきたいとは思っています。時代の流れ次第ですね」。
就農当時は安佐北区可部の実家から畑に通っていた。従業員も雇わず母と二人「毎日朝5時頃から夜9時頃までずっと動きっぱなし。近所のおばちゃんから『寝る前にトイレに行くと、あんたの畑はまだ電気が付いている』と言われていました」。
最初は11棟だったビニールハウスは13年たった現在13棟。「下手に規模を大きくしたくなかったんですよね。今ある面積をきっちり無駄なく回転させられるようになってからと思って。だから増設しようと思える段階まで12年かかりました。それでもまだ改善の余地があると思っています」。
さらに「野菜の表情って一日一日違う。朝と夕方でも全然違う。だから毎日観察してやらないといけないんです」。だからあくまでも目が届く範囲で、これが中岡さんの基準の一つだ。
中岡さんの主品目はほうれん草だが、スタートは小松菜からだった。就農当時の養分が十分でない真砂土でも比較的つくりやすいのが小松菜だった。4年目からメインをほうれん草に切り替えたのだが、きっかけは農業の師匠と慕う農家さんからもらった露地栽培のほうれん草だった。
「ものすごく甘くて、これまで食べてきたほうれん草とは別物でした。葉物にこんなに味がのるのかと」。いつかこんな作物をつくりたいと思うようになった。広島の丘陵地帯という限られた面積では、回転を上げてつくれることができる葉物は計算が立ちやすい。葉物の中で、自分が好きで、あげても喜ばれるもの、中岡さんにとって、それがほうれん草だった。中岡農園ではほうれん草は1年で6回~6回転半のサイクルで作っているという。「生活のためにもちろん計算はしますが『つくりたいもの』という思いが強かったですね」。
就農当時は精神的にも余裕がなく「うまくできても、なぜうまくできているのかが分からないから怖かった。理由が分からないから、いつかできなくなるんじゃないかっていう恐怖に襲われていた時期もありました」。もちろんうまくいかないこともあり、そんな経験を重ねるうちに、打たれ強くなっていった。
「妻の父が僕の魚釣りの師匠なのですが、魚釣り以外にも、仕事に対する考え方とか結果を出すための方法論とか、いろんなことを教わったんです」。その中の一つが「仕事がうまくいかなくなった時に解決する方法」だった。師匠いわく解決法は二つ。一つは仕事を完全に休むこと、もう一つは仕事に行き続けること。
「休むのは逃げるようで、何の解決にもならない気がする」そう考えた中岡さんは、うまくいかない時もとにかく通い続けた。「あの手この手が通用しないからうまくいっていないのだから、これ以上新しいことを試してもド壺にはまるなと思って、基本だけを徹底して繰り返しました。そうするといつの間にか上り調子になって前に進めるようになっている。その繰り返しです」。
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