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「守りたい」農業をバトンタッチ

2019年5月執筆記事

廿日市市友田
前川農園

前川すずみ・池田淳子

 社会に出てからも農業に触れ続けてきたすずみさんには、目指したい農業のイメージがなんとなく頭にあった。ファッション業界と農業、全く異なる世界だが、20年以上デパートで培ってきたセールスノウハウがあれば何でもできるはずという自負もあった。
 さらにすずみさんには兼ねてから抱いていた別の思いが。「農家で、儲からない、しんどいという思いを昔からしてきたから、いつか、農業をやっていて良かった! と思えるようになりたいという気持ちがものすごく強くて。子どもの頃は馬鹿にされて悔しい思いをしたこともたくさん。それなのになぜ父さんや母さんはもっと良い生活をしようと努力しないんだろうって。父も母も作物を作ることはできても、そういった工夫は全くできない人たちでしたから」。
 すずみさんにとって両親は、必ずしも全てにおいて見習うべき尊敬の対象ではなかった。「昔から結婚に興味がなかったのですが、それは母の大変さをずっと見てきたから。父は亭主関白でやりたい放題。父が稼いだお金は全部祖父に渡していたのですが、その中から祖父が私たち家族に渡してくれる生活費はわずか。それだけでは暮らしていくことができなかったため、母は働きに出ることになりました。祖父と祖母が父から受け取ったお金をどのように使っていたのかは分かりませんが、お金をせびる叔母や叔父に与えたり外孫に何かを買い与えたりしていたようです。そして父は、母が稼いできたお金を全部持ち出して何日も帰ってこないし、お酒を浴びるほど飲む、母や私たちに手を上げることも日常茶飯事。私たちはどんなに働いても、何一つ買ってもらうことはありませんでした。ランドセルも父が入学ギリギリになってようやく買ってきたくらい。だから見るに見かねて父と別れるように母に訴えたことも。
 それでも母は別れない。なぜかというと、手に職もなくて別れて生きていく自信がないから、ひたすら我慢するしかないんです。女性でも、自分に力があれば、自分で道を選んで生きていけるのにって、子どもながらに思いましたね。
 でも私たちのために必死で我慢してくれていることも分かっていたから、必死で母を支えようとしていました」。
 母親の光子さんは脳梗塞を患って体が不自由になり、約3年ほど自宅で介護生活を送ったのち、2010(平成22)年に他界。その間、身体障害者1級で要介護5という母親を、すずみさんと淳子さんは働きながら自宅で介護し続けた。
 母親が亡くなった後は相続問題に直面。親戚を相手取り数年にわたる調停によってなんとか現在の土地建物を守り解決に至ったが、そのためにすずみさんは休む間もなく奔走することとなった。
 「相続問題に関しても父は何もしないし、親戚は身勝手で。私がこの家に生まれてきた意味ってなんだろうって、子どもの頃から考えていたんですけど、前川に生まれてきた私の役目は前川家の『掃除』。前川家のいろいろな問題をきれいに片付けるために生まれてきたんだって思うようになりました」。
 そんな思いをしたにも関わらず、なぜ家を出ることもなく、農業を嫌いになることもなく、むしろ「ここに残り、守りたい」と思えたのだろうか。
 「その点に関しては、父と母の戦略に、まんまとはまってしまったのかもしれませんね(笑)。両親や周りの大人たちはそんな人間ばかりだし、学校に行けば馬鹿にされていじめられるし、とにかく子どもの頃からしんどくて、なんで自分がこんな思いをしなければいけないのかと悔しい思いをしてきました。だから重ねてきた我慢と忍耐と努力は少々のことでは負けません」。
 今回の誌面では書き切れないが、すずみさんの口から語られる数々の壮絶なエピソードを表現するのに、反骨心とか、逆境を力に変えてとか、そんな言葉では生ぬるい。しかしすずみさんの心と体に積もり積もった経験と思いの全てが今、膨大なエネルギーとなって前川農園を大きく前に進めるために注ぎ込まれているように思う。
 「農業を馬鹿にしてきた人たち、農業を儲からないものにしてきた日本に腹が立っているので、一人一揆です。いつか、農業ってすごいんだっていう世の中に変えていくために努めることが、私の最後の仕事かなって。この地に土地を残してくれた先人たちが浮かばれるように、今度は私たちから後の人たちにつないでいく準備も、そろそろしておかないと」。
 そうやって未来の農業を見つめるすずみさんの言葉には、過去に自分を苦しめた体験への恨みや復讐心などは感じられない。それらはすでにすずみさんの中で別のエネルギーに変換されているのだろう。

 一度は農業ではない職に就いたすずみさんだが、幼い頃から農業を手伝い、父親と母親の姿を見てきたので、いずれは継ぐことになるだろうという気持ちはずっと心の片隅にあった。ただ、両親から後を継ぐように強いられたことは一度もなく、むしろ「継がなくていいから、嫁に行って、農地は売ればいい」と学生時代に言われたことがあった。
 「継がなくてもいいんだと、気持ちは楽になりましたね。同時に、父は相当しどい思いをしてきたんだろうなと思いました。長男に生まれたというだけで夢を捨てて残り、にも関わらず親兄弟は非協力的で。父に任せきりで働かない父の両親、全く手伝いもせず、都合のいい時だけ現れては野菜や米を持って帰る親戚。相続の時は彼らに何もかも奪われそうになって。そんな親戚はいらないと、私は小学生ながらに思っていました」。
 そんな父親に対しすずみさんは「一番最初に生まれた子どもの気持ちはすごく分かる気がするし、そんな状況でしたから父も気の毒だったし、父がグレてしまい家族にあんなふうに振る舞ってしまった理由も分からなくもない。でも私は父みたいにはなりたくなかった。だから父親とは違う生き方をしようって。自分の境遇を理由に周りに当たっても結局は自分が損をするだけ。私は社会に認めてもらえるような生き方をして、社会に貢献して、何か残していきたいって思うんです。回りに反面教師が多かったので、そこから学んで、私はみんなが幸せになれるように、与えられたものを大切にしながら働いて、バトンタッチしたいなって思います。今、とても楽です。願いがかなった気がします」。
 すずみさんと淳子さんのほかに男児が生まれなかったので、前川家には後継ぎがいないからダメだと近所から散々言われたが、信昭さんは「息子はおらんでいい。娘で良かった」と返していたという。すずみさんは父親の強がりだと思っていたが、そうではなかったようだ。しかし同じ地域で本格的に農業を営んでいるのは、今となっては前川農園くらいというから、皮肉なものである。
 両親は兼業だったのを、後を継ぐこのタイミングで専業に切り替えたのは「専業でないと本気になれないかなと。最初はパートに出ていたんですけど、4年前に病気になったのをきっかけにそれも辞めて、本腰を入れることにしたんです。本気で農業を語るなら、やっぱり片手間ではできません」。
 すずみさんは4年前に胃がんを患い全摘出している。「胃がんを告知されても、驚きも泣きもしませんでした。それまでの数々のつらい経験を思えば、取り除けば治るなら良かったと思えたくらい。入院中は身の回りのお世話をしてもらえるので、やっと休めると思うとうれしかったです(笑)。生きていく過程でいろんな落とし穴が待ち受けていますが、それをどう受け止めるかは生き方次第なんだなって」。
 たとえば、がんが人生最大の苦しみだと感じる人もいれば、がんですら軽く思えるくらいの苦しみを知っている人もいる。すずみさんは、幼い頃から経験してきた苦しみは全て、胃がんという大病に出会った時に乗り越えるための勉強だったと受け止めているという。今現在は完治して「胃がなくなってしまったことも忘れるくらい、忙しいし、楽しいし、めまぐるしいし。いろんなことがどんどん良い方向に動いている気がします」。
 講演で話す機会も多いすずみさんは、農業に楽しいイメージを持ってもらうために、できるだけ明るく楽しい話をするよう心がけているという。暗い話もつらい話も、できるだけ面白おかしく話す。
 「どんなにつらかったことも、面白おかしく変換できるように鍛えられたんだと思っています。だから、つらいと思われがちな農業にも面白さを見出して、話を組み立てていく。それができないと、野菜一つとっても、魅力的に語ることはできないし、ましてや次の世代に農業を伝えていくことなんてできませんから」。

 農業を始めて最初に困ったのは、どこにどうやって売ればいいのか分からなかったこと。届出の仕方や梱包の仕方など分からないことだらけだったが、父親の信昭さんは作るだけ作るが、販売に関わる部分は大の苦手。かといって身近に教えてくれる人もおらず、地道に売り歩いて少しずつ販路を開拓していくしかなかった。
 「父は作るのは上手だけど、作ってもお金に換えるのが苦手だから、もったいないことに腐らせてしまうことも少なくなくて。それでも昔から「農地は一度荒れてしまうとなかなか元に戻らない。だから耕さないといけないんだ」と言って、ものすごく働きます。もの忘れが多くなった今も、体が覚えているみたいでずっと田畑を回っています。農地を守らなければという義務感と使命感はずっと持ち続けてきたんでしょうね」。
 もう一つ、農業を始めた頃に難しさを痛感したのが、野菜を上手く育てられないこと。習った通りに作っているのに思うように育たない。さんざん勉強して経験を重ねるうちに、たとえ同じ町内の隣の畑でも、土質も違えば作り方も変わってくることを知る。
 「子どもの頃からあれだけ手伝ってきたのだからできるものだと思っていたら、違いましたね。結局、父がきちんと段取りしてくれていたから、言われたとおりに作業するだけで、できたつもりになっていた。やらされていただけで、自分からやっていたのではないのだと知りました」。
 それに気づいてからは猛勉強。今はインターネットで検索すればたくさんの情報が手に入る時代。作物の作り方もちょっと調べれば出てくるが、その年は上手くいっても、翌年に土づくりから始めるとなると上手くいかない。
 「結局は野菜や土との対話というか。四六時中、天気や温度や湿度を気にして、土を眺めて、虫を見つけて、体験と感覚を積み重ねるしかない。圃場が変わればやり方も変わるし、はるか昔にどんな作り方をしていたかによっても影響を受けるし、作る人の個性によっても変わりますからね」。
 試行錯誤で途方に暮れることばかりだった農業生活を楽しめるようになったのは、徐々に自分たちの作ったものを知ってもらえるようになってきてから。最初は義務感や使命感にとらわれていた部分も多かったが、すずみさんも淳子さんも、今はこの先どうなっていくのかを考えるのが楽しくて、今後が楽しみだという。
 「自分がつらい思いをしたから仕返ししてやろうとか、負の感情からくるパワーだけではダメなんだと思います。なにくそ! っていう悔しさはものすごい力になるんですけど、それだけにとらわれると、人から見て魅力的には映らない。デパート時代に、たくさんの人からファンになってもらわなければ物は売れないと実感して、自分を好きになってもらうには、苦しみが顔に出ていてはダメだと学びました。私たちの子ども時代の話なんて聞くと、随分不幸に思われるかもしれないけど、幸か不幸か『自分にはこれがあるからいいじゃない』って思える性分が備わっているのだから、どんな試練も笑って話せる自分でありたいですよね」。

 すずみさんと淳子さんの理想は、お客さんにとって身近な農家。出荷したらどこの誰の口に入ったか分からないというのではなく「ここで買ったよ」「こんなふうに料理して食べたよ」と互いの顔が見える関係を大切にしたいと考えている。
 これからの課題の一つは、収量アップと野菜選び。前川農園に合った野菜を吟味して、ここ5年でようやく絞れてきたという。定番は、大蒜、唐辛子、玉ねぎ、にんじん、里芋。それ以外にも新しい作物を検討中だが悩ましい。たとえばほうれん草などは定番人気だが、作る農家が多く採れる時期がかぶるため価格競争に陥りやすい。かといってあまり馴染みがなさ過ぎる作物だと、珍しいから眺めはするが食べ方が分からないから購入につながりにくい。
 その問題を解決するには対面販売が有効で、作っている農家自身がお勧めの食べ方を伝えれば試しに買ってもらえるきっかけになり、おいしく食べてもらうことができればリピートにもつながる。あえて、まだあまり知られていない作物でお客さんを驚かせるのも二人の楽しみの一つ。飲食店などに持って行くと、珍しい食材は勉強になりますと喜ばれることも。
 自分たちの作物を通じて新たな体験と食育の場を提供し、昔ながらの農業の魅力も伝承していく。「何でも教えてくれる優しいおばあちゃんになりたいですね」。二人の口からはアイデアが次々にあふれてくる。チャレンジしたいことが盛りだくさんで、実現が追いつかないくらい。
 そんな二人が後を継いでくれることに関して、信昭さんはどう感じているのだろう。「後を継いでもらえて良かったねと、周りから言われるのでニコニコしていますが、これまでみたいに全部を自分の思い通りにできないから腹が立っているのでは(笑)。でも父が作ってきた大蒜や里芋は大切に残していくつもり」。
 すずみさんと淳子さんからバトンを受け継ぐ相手はまだ決まっていない。わが子に無理強いするつもりもない。ただ、これは知っておいた方がいいよと断片的に話したり、「前川農園」という名前が外から聞こえるようになってきたりするうちに、だんだん興味を持つようになってきたようだ。
 「母さんと叔母さんがやりよることってすごいんじゃねって思ってもらえるようになれたらうれしいですね。私たちがいなくなった後でこの農地がなくなってしまうのはやっぱりさみしいですから。規模を大きくする必要はありませんが、今ある農地を生かして受け継いでくれる人が出てきてくれたらいいなと」。もうしばらくは、二人で切り盛りしながら少しでも収量を増やし、ファンを増やせるよう栽培方法や運営方法を工夫していく予定だ。
 とはいえ、専業農家としてスタートしてからまだ5年。現役で活躍するすずみさんと淳子さんに、まだまだ当分の間楽しませてもらえそうだ。

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。