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ひろしま食物語 ひろしま食物語

一度は二手に分かれた道

2019年5月執筆記事

廿日市市友田
前川農園

前川すずみ・池田淳子

 姉のすずみさんと妹の淳子さんは年子の姉妹。現在前川農園を営む廿日市市友田(旧佐伯郡佐伯町友田)で生まれ育った。小学校に上がる前から両親と田畑に出て手伝い、小学校4年生ですでに軽トラックを、中学になるとトラクターやコンバインを動かせるようになっていた。高校、短大、社会人になっても、土日など学校や仕事が休みの日は農作業という日常は変わらなかった。
 社会に出ると、すずみさんはデパートの婦人服のオーダーメイドサロンで販売員として、淳子さんは保育士として、それぞれ農業とは別の道を歩んでいた二人。姉妹が農業という一つの道に合流したのには、どんな理由があったのだろう。

 代々この地で農業を営んできた前川家。すずみさんと淳子さんの父親信昭さんは本家で6人兄弟の長男として生まれたが、農家を継ぐより、学校に通って学ぶことを望み勤めたい会社も決まっていたという。しかしその夢を追うことは許されず、涙をのんで自らの立場を受け入れ、何もかもあきらめて後を継いだ。
 その後、農業だけで生活していくのは厳しいと考え、信昭さんは牛の飼料を売る仕事を始めた。当時は農機具の代わりに牛や馬を飼っている農家が多かったので、牛馬の飼料になるビール粕を広島のビール工場で譲ってもらい、それを地域の農家に売り歩いた。
 その成果もあって家計は潤い、自転車が数千円だった時代に、姉妹は2万円もするような足こぎの金物自動車に乗って遊んでいたという。しかし豊かな日々はそう長くは続かず、牛馬を飼う農家が減るにつれて徐々に生活は苦しくなっていった。
 信昭さんは飼料の販売を辞め、鉄工所や苗木の販売会社に勤めに出るようになったが、その後も兼業農家として、受け継いだ約1ヘクタールの農地を守り続けた。
 この辺りでいち早く自動車の運転免許を取得したのは信昭さんだった。専業農家ではなかなか食べていけなくなっていたところに車が手に入る時代になり、地域でも父親が働きに出て、残った老夫婦と主婦が農業を営むいわゆる「三ちゃん農業(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん)」が増加。そうなると、管理がしやすく、当時は政府の保証もあった米作りが主流となっていった。

 母親の光子さんは広島市内の出身で、バレーボールの実業団で活躍するほどの選手だったが、信昭さんと出会って農家に嫁ぐことになり、町内の会社に勤めながら農業を手伝った。「父には働かんでええけぇと言われたのに嫁いだ翌日から働かされて、だまされたと最期まで愚痴っていました(笑)」とすずみさん。
 光子さんのほほ笑ましいエピソードをすずみさんが教えてくれた。姉妹は物心ついたころから両親の仕事を手伝っていたが、中学生の頃に光子さんが「よく手伝ってくれるけぇ、靴を買ってあげよう」と言ってくれた。ちょうど有名ブランドのスニーカーが流行していたので、姉妹は大喜び。「何色にしよう」「どんなデザインがいいかな」夢は膨らむ。
 しかしそれからしばらく母は何も言ってこない。不思議に思っていたある日「靴が届いとるよ」と待望の言葉が。
 「え!? どこから!?」と尋ねると「農協から」との答え。農協? 冷静に考えれば即座に疑問が湧いてくるはずだが、舞い上がっていた姉妹は「農協もあんなブランドのスニーカー扱ってるんだね!」と素直なものであった。
 期待を胸に箱を開けてみる。すると、そこに入っていたのは思い描いていたスニーカーとはほど遠い「田沓(たぐつ)」だった。田沓とは田畑での農作業時に用いた履き物である。
 「思い返せば、事前に母から『足のサイズは何文か?』と聞かれたんですよ。文? センチじゃないの? とは思ったんですけど」とすずみさんは苦笑い。
 その頃は子ども用の田沓は売っておらず、姉妹はいつも裸足で田んぼに入っていた。そんな姉妹が田沓を履けるまでに成長してようやく買ってもらえた貴重な靴には違いないのだが、どうやら年ごろの姉妹がときめくプレゼントとは随分かけ離れていたようだ。
 さらにもう一つ、今度は小学校時代の話。みんながおしゃれな通学バッグを持っているのになかなか買ってもらえなかったすずみさん。ようやく買ってもらえたのは、小学生には到底似つかわしくない大人用の買い物バッグだった。
 バッグを使いたくなかったすずみさんは、母親を傷つけずになんとか返品してもらおうと「こんなに大きなバッグだと地面に着いてしまうから」と子どもなりに言葉を選び、しかし内心必死で訴えた。きっとあきらめて返品してくれるだろうと確信したすずみさんだったが、翌朝起きると、持ち手を短く切ってリメイクされたバッグが。
 「これじゃ、もう返品もできないし使うしかない。なんで小学生の私がこんなバッグを持って…と悲しくて」とまたまた苦笑い。
 田沓や、望まぬ方向にリメイクされてしまったバッグと対面した瞬間の幼い女の子の表情を想像するとなんとも切ないが、すずみさんはあきれた表情を浮かべつつ明るく笑い飛ばす。

 妹の淳子さんは1男2女の母親。一番下の子が今年20歳になり、子どもたちは皆成人となる。
 「今の子どもたちは、私たちが子どもの頃みたいに休日は家を手伝うのが当然といった環境にありません。土日もクラブや習い事などで忙しいですよね。私たちは休日に家で過ごすのが当たり前だったので、遊ぶなら手伝いなさいって。友達のように自分も遊びたいなと思うこともあったし、街に出かけることがなかったので学校で話題についていけないこともありましたが、友達をうらやましいとはあまり思いませんでした。手伝いながらも、姉と二人、自分たちなりに上手に遊んでいましたから」と淳子さん。自然と触れ合う日々の中で、自分が関わって育ったものを食べられることに対して、幼心に幸せを感じていたという。
 周囲と比べれば違いを感じるが、そうでなければ朝から晩まで田畑で過ごす休日も、古い道具や農機具に囲まれた家も、淳子さんにとっては当たり前の日常。しかし学生時代、家に遊びに来た友人が五右衛門風呂を見て驚き「吹いて火をおこすお風呂!? 入ってみたい!」と興味津々で泊まりに来たことがあった。その時淳子さんは「台唐や五右衛門風呂などうちにある古い道具は、よその家にはない面白いもの、貴重なものなんだっていう感覚を覚えて。それなら大事にしたいという気持ちが芽生えました。今はそれを子どもたちにも教えたいですね」。
 淳子さんは子どもの頃から保育士になるのが夢だった。保育園で受け持ってくれた保育士の先生が大好きだったことがきっかけで、その先生とは今でも交流があるという。
 短大に進学して保育士資格を取得。しかしいざ就職となると、地元では退職する保育士が少ないため空きが出ず、働く場所がない。仕方なく保育士とは全く関係のない仕事をしながらチャンスを待ち、ようやく保育士の仕事に就けたのは、短大を卒業して10年後のこと。それから19年間、農業に転向するまで保育士を続けた。
 晴れて保育士として働けるようになったものの、子どもの減少によって閉園や合併が進み、いつ職を失うか分からない。合併で勤務先が遠くなれば通勤が難しくなるかもしれない。そんな不安が募っていた時、姉のすずみさんが家の農業を継ぐことになった。社会に出てからも変わらず休日は父親の農作業を手伝いながら、いずれは自分たちが米や野菜を作り田畑を守れるようになっておかなければという思いは漠然とあった。ちょうど子どもたちの自立も見えてきた時期でもあり、それなら自分も姉と一緒に前川農園を守ろう。それが淳子さんの出した答えだった。
 周りの子どもたちとは違う境遇で育った淳子さんにとって、ずっと同じ体験を共有してきた姉のすずみさんは、友人には話せない思いも伝わる、会って話すと気持ちが落ち着く、そんな存在だった。大人になるにつれて昔のように一緒に過ごす時間は減っていったが、ちょっと心が疲れてしまった時、ふと思い立って会いにいき、語り合うと元気を取り戻せた。「姉は周りにも厳しいけど自分にも厳しくて、やることはやる。だから何も言えません(笑)。彼女がいなければ前川農園はここまで進んで来られなかったと思います」。

 姉のすずみさんは子どもの頃から裁縫が好きだった。縫い物が得意な祖母に教わりながら、保育園を出る頃には人形の洋服を自分で縫っていたほど。短大では家政科を選び、卒業すると広島市内の洋服店に販売員として就職したが、どちらかというと職人気質で、売るよりも作る方に興味があったため退職。被服をもっと勉強したいと洋裁学校に入り直した。
 そんなある日、校長先生から声がかかった。広島市内のデパートで婦人服のオーダーサロンが生地を扱えるスタッフを募集しているとのことで「あなたならできるから」と半ば強引に面接に連れて行かれ採用が決定。大手の生地卸売会社の社員として、デパートに派遣される形で勤めることとなった。洋裁学校は夜間に切り替え、昼間はデパートで働き、終業後に通学するという生活を6年間。もちろん休日は家で農作業。この時から24年間、農業に就くまで勤め上げることとなった。
 10年勤めた頃、派遣元の会社が倒産。時代の流れとともに高価なオーダーメードへのニーズが低迷し手を引くデパートが多い中、派遣先のデパートは継続を望んでおり、すずみさんは引き続き働くことに。倒産した派遣元に以前から生地を卸していた会社が採用してくれることになった。単なる販売員ではなく生地を熟知しきちんと説明できる人材は希少で、すずみさんの能力は高く評価されていた。
 すずみさんは寸法の測定も、デザインも、縫製もできるが、縫って仕上げる工程に関しては熟練の縫い子さんが担うので、自身は生地についてしっかり知識があり、一通りの技術についても理解しているマルチな販売員という立ち位置だった。
 そういった立場上、お客さま、外商員、デザイナーなどあらゆる関係者から頼られる存在となり、いつしかすずみさんが中心となって、仕事の段取りや人間関係を調整するように。競争の激しいデザイナーの世界で頻繁に勃発するもめ事の仲裁を買って出ることも珍しくなかった。
 端から見れば、頼れる人材だからこそ果たせる役目だと感心したくなるが、当の本人にしてみれば、純粋に仕事に集中できる環境ではなく、本来仕事に求める理想とは大きくかけ離れていく現実と、寄りかかられるばかりで自らの拠り所を見出せない毎日に、疑問と苛立ちは募るばかりだった。そんなすずみさんに、大きな転機が訪れる。

 ある日、すずみさんの派遣元の会社がオーダーメード事業から撤退することが決まった。それに伴いその会社においてはすずみさんの仕事がなくなってしまうわけだが、デパート側はオーダーメードを継続する方針だったため、功労者であるすずみさんに対し別の会社への転籍を勧め、引き続き働くことを提案された。
 しかしこの時すずみさんの脳裏をよぎったのは「チャンス」。転籍を勧める会社に対し「辞めるという選択肢はありませんか」と切り出した。
 これまで辞める素振りなどみじんも見せず、会社のため、仲間のため、精力的に尽くし続けてきたすずみさんを知る人にとって「辞める」という言葉はまさに寝耳に水。予想外の返事に周りはみんな驚きと戸惑いを隠せなかった。
 それからが大変。現場の「柱」を失うかもしれない危機に、主任、係長、課長、部長…入れ替わり立ち替わり管理職に呼ばれては、なんとか思いとどまってくれと説得の嵐。それまで話したこともない上司とこの期に及んで初対面ということも。「あなたが大変な思いをしていたのはよく知っていた」「それならなぜ助けてくれなかったのですか」そんなやり取りを繰り返した。
 「辞めて何をするの?」そう聞かれたすずみさんは「農業です」と答えた。「今から農業?」と驚く相手に「今が丁度いい絶妙のタイミングなんです。父もまだ元気なので、今のうちに教わって後を継ごうと思います。むしろ今教わっておかないと、もうできなくなってしまうかもしれないから」すずみさんの心は決まっていた。
 「もう使われるのは終わり。自分の思うように生きていく」やりきったすずみさんに、迷いはない。どんなに引き留められても、すずみさんの心が引き返すことはなく、2012(平成24)年9月、子どもの頃から憧れ、尽くしたファッション業界と決別。翌年の3月には妹の淳子さんも加わって、二人で新しい前川農園を創り上げていくことになった。

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。