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ひろしま食物語 ひろしま食物語

みかんの島「高根島」

2023年2月執筆記事

尾道市瀬戸田町高根
長畠農園

長畠 弘典

 レモンの生産量日本一を誇る尾道市瀬戸田町。瀬戸田町は生口島(の大部分)と高根島の二つの島から成り、本州側から尾道大橋を渡って向島、因島を越えると生口島、そこからさらに高根大橋を渡ると高根島に到着。昔から「みかんの島」として知られる高根らしく、橋は鮮やかなみかん色だ。
 広島県のレモンの栽培は1898(明治31)年に豊田郡大長村(現在の呉市豊町)で始まった。豊町といえば大長みかんが有名だが、実は国産レモン発祥の地であり、みかんよりもレモンの方が古い歴史を持つ。和歌山県からネーブルの苗木を購入した際に紛れ込んでいたレモンの苗木(リスボン系と推測されている)三本を試しに植えてみたところ、瀬戸内の気候がレモン栽培に適していたことから順調に成長。さらに明治末期から大正初期にかけてレモンの価格が高騰したことなどから急激に普及した。
 そこから瀬戸田地区にも広がって、1953(昭和28)年には全国25ヘクタールのうち広島県で18ヘクタールと、生産量は全国一となり、1963(昭和38)年には600トンを超える生産量で全国の50%を占めた。こうして国産レモンの主産地となり今に至る。2 0 1 8(平成30)年時点でも全国シェア50・4%と、全国トップの座に付いている。その中でも瀬戸田の生産量が一番というわけだ。
 地図で見てもらうと分かりやすいが、生口島に寄り添うように浮かぶ高根島はとても小さな島。現在高根島の子どもたちは生口島の小学校に通っているが、かつては高根にも小学校があり、中学校から生口島に通うことになっていた。「中学に上がると、高根島から来たっていうだけで、生口島のやつらから小馬鹿にされるんですよ。ひどい話でしょう。自分たちだって島の人間なのにね」と今号の主役である長畠さんが苦い思い出を教えてくれた。

 みかん色の橋を渡って島に下り、今号の取材場所である長畠さんの倉庫兼作業場に向かう。左手には柑橘の島らしく、みかんやレモンの木々が茂り、畑の前にはところどころ軽トラックが停車中。ちょっと遠くに目を向けると、山の斜面にも畑が広がっている。訪れる季節によって、農園は深緑色だったり、橙色や黄色に色づいていたり、四季折々の表情が楽しい。右手には瀬戸内海が穏やかな波を揺らしながらキラキラと輝く。瀬戸内海は小さな海。見渡す限りの水平線というような壮大なスケール感はないが、名前も知らない小さな島も含めポツポツと浮かぶ緑色の島、きらめく海、青い空、これらが一体となって、唯一無二の風情を醸し出す。この光景に癒され、いつまででも眺めていたい、そんな穏やかな気持ちに包まれるという人も少なくないだろう。帰りには逆方向から、海の上に架かる小さなみかん色の橋を見上げることとなる。
 長畠さんの倉庫に到着。掲げてある看板には似顔絵が。迎えてくれた笑顔を見て、農園主のものだとすぐ分かる。車を停めると前方には自動販売機が。ここで長畠さんがつくったみかんやレモン、最近販売開始となったレトルトカレーなどが購入できる。このカレー、もちろん、長畠さんがつくったレモン入り。カレーにレモン? まだ未体験の人は、ぜひ試してみてほしい。長畠さんのお子さんのお気に入りでもあるそうだ。
 倉庫には橙、黄、青のコンテナが山積みになり、天井に届きそうなほど。冷蔵庫や選果機も完備されている。空のコンテナをお借りして、底面を上に向けて並べ、椅子代わりにして輪になって着席。本誌の取材で何軒か柑橘農家さんを訪れているが、話を聞く時はいつもコンテナに座っているような…。今回はどんな話を聞かせてもらえるのだろう。ワクワクしながら、取材スタート。

 「保育園の時に、将来の夢はみかん農家って書いてるんですよ。その頃までじゃないかな、農家になりたいと思っていたのは」と振り返るのは、瀬戸内海に浮かぶ小さな島、高根島で柑橘を栽培している長畠農園の長畠弘典さん。柑橘の栽培規模では広島県内でトップクラスを誇る農園だ。「柑橘以外なら県内でももっと大規模な農家さんがいるし、柑橘でも県外に目を向ければまだまだ上がいる。僕ももっと頑張らないといけませんね」。
 農家から気持ちが遠ざかったのは、両親の大変そうな姿を見ていたからだった。長畠さんが小学校六年生の時に、台風19号で西日本の産地は大きな被害を受け、家の農園も半分以上が荒らされ大打撃を受けた。それまで順調だった農園経営にも余裕がなくなり、それでも貧しい思いをするようなことはなかったが、両親は休みなく働き、家族で遊びに出かけることもなくなった。そんな日々の中でいつしか「一生懸命働いてもこんな生活しかできないなら、絶対に農家になんてならない」と思うようになった。

 高根で生まれ育った長畠さんは高校を卒業すると東京の大学に進学した。家は曾祖父の代から続く柑橘農家だが、この時点で長畠さんに後を継ぐ意思はなく、かといって将来の目標があったわけでもなく、父親の母校である農大になんとなく入ったのだという。
 大学に入っても徹夜で麻雀に明け暮れる日々。「本当にダメな学生でした」と自らも苦笑いするしかない学生生活を送っていたが、ある時、先輩からの誘いで研修会の実行委員を務めることに。学生と、比較的若い農家とその関係者が集まって農業を語るという趣旨で、先進的な取り組みで活躍している農家を招いて講演を聴くことになった。その内容は興味深く、何より楽しそうに農業を語る講演者の姿が「自分は家や島のことしか知らなかったけど、全国にはこんなに夢のある農業があるんだ」そう教えてくれた。
 これを機に、農業も捨てたものじゃないな…と思い直した長畠さんは、将来就農するつもりで仕事を探そうと決めた。市場など農業関連の説明会に参加して就活していたが、最終的には、当時、果樹研究同志会の会長だった父親のつてで、広島県果実農業協同組合連合会に就職することとなった。
 就職して1年目は長崎で研修、2年目は県の試験場や産地、市場などで研修、3年目から指導員として三原市の須波〜幸崎地区と竹原市を2年間担当したのち、高根島に帰り実家の農園に入った。26歳だった。「一人前にならないうちに辞めてしまって、本当に申し訳ないことをしたと思うけど…」と長畠さんが口ごもったのは、退職理由のせいだった。日ごろから溜まっていた同会の風潮や待遇への不満が積もり積もって爆発し、辞表を出す形となったのだ。当時、各都道府県の果樹研究同志会を取りまとめる全国果樹研究連合会の会長を務めていた父親に対して申し訳ない思いはあったが、辞表を携えて覚悟の抗議に出た自らの主張もまた、曲げることはできなかった。

長畠農園公式サイト
https://nagahatanouen.com/

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。