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ひろしま食物語 ひろしま食物語

生涯を捧げる畑

2016年9月執筆記事

広島県廿日市市宮島町
中岡農園

山本悟史・山本千内

 宮島にはほかにも畑はあるが、生業にしているのは中岡農園だけ。悟史さんいわく「僕たちは変わり者なのかもしれないけれど、自分たちはごく普通で自然なことをしているにすぎない」。農業を知っている人ほど「自然農で商売ができるはずがない」と言うそうだ。「でも自分たちは今それができているし、たとえ自分たちが極少数派だとしても、自分たちのために、千草のために、伝えたいものがある。最近、少しずつではあるけれど結果が出て、徐々に認められつつあって、こうして自分たちがやりたい農業を続けられるのはとてもありがたい」と悟史さん。「自分たちが信じるやり方を貫き、地に足を付けてしっかり生きる姿を見てもらうことによって、こんな生き方もあるんだと感じてもらえたらうれしい」。

 悟史さんは大学時代、新宿のビルに住み込みで勤務していた。窓のすぐ外には派手な看板がきらめき、寝ても覚めてもネオンに照らされ続ける毎日の中で、次第に自分が壊れていくような危機感を覚えるようになった。その後、悟史さんは香川県の直島に移り、働いていたホテルで千内さんと出会った。千内さんは直島に来るまで、住み込みで働きながら全国各地を転々としていた。それから遠距離恋愛を経て結婚し、二人は広島へ。
 しばらくしてリーマンショックが発生。一瞬にして破綻していく経済のもろさを目の当たりにし、ある日、悟史さんは、職場の小さな事務所の中で「太陽があって、地球があって、自然の中で人々が暮らしている情景が、突如目の前に広がった」という。それ以来、人は、経済に合わせるのではなく、自然に合わせて生きるべきなのではないかと考えるようになった。
 広島に来るまで、悟史さんと千内さんは海外を旅し、いろいろな国で農家の暮らしを見てきたし、千内さんの実家が農家ということもあって、すでに二人の中には漠然と農業への憧れのような気持ちが芽生えていた。それがリーマンショックをきっかけに「自然に合わせて生きる=農業で生きる」という「決意」へと変わった。農業を始めたいいと言い出したのは悟史さんだったが、千内さんもすぐに同意した。

 勉強のため、いろいろな農家を見て回り、福岡で1年間農業研修を受けた。研修では給料は出ないため、千内さんが働きながら生活を支えた。何かあれば助けてくれる人が現れたり、必要なものが手に入る偶然があったり、なんだかんだで二人が生活できるだけのものは確保できた。経済的には少しも余裕はなかったけれど、「必要なお金はピッタリついてくるものなのだと思った」と千内さんは笑う。農業研修を終えて広島に帰ってくると、悟史さんが広島、千内さんが愛媛出身であることから、瀬戸内のどこかで畑を探すことに決めた。
 畑探しの旅に出る前、二人は宮島に立ち寄った。宮島は二人が結婚式を挙げた思い出の場所で、節目にお参りするのが習慣になっていたのだ。その時ふと、悟史さんは宮島の裏側に畑があったことを思い出した。以前、大聖院でダライラマの講演を聴くために宮島を訪れた時、散策中に大砂利(中岡農園のある地名)にたどり着き、この畑を見ていたのだ。その記憶がよみがえり、中岡農園を見に行ってみると、夫婦二人で営むのに適度な広さの畑で、そばには川が流れ、瀬戸内海を見渡せる。思い描いていた理想の畑があった。しかも、大好きな宮島に。
 それから約1カ月かけて瀬戸内のさまざまな畑を見学したが、やはり最初に見た宮島の畑=中岡農園が忘れられない。「自分たちの畑はここしかない!」もう何の迷いもなかった。
 農業をするまで、長い間旅をして、定住することなく転々としていた二人。「しっかり働くこともなく、ずいぶん長い間、自由に好きなところに行き、やりたいようにやってきたので、思い残すことはありませんでした。農家として毎日畑で過ごす覚悟ができていました」と悟史さん。初めての定住の地に宮島を選び、2012年12月、中岡農園で、二人の農業人生がスタートした。

 宮島は「神の島」と呼ばれ、田畑を耕すことが禁じられてきたが、戦後、一部の土地を開墾し田畑を耕すことが許されるようになり、中岡農園のある大砂利も、当時開拓された。1946年に中岡實さん、スミエさんご夫婦が開墾し、中岡農園が誕生。「大砂利」という地名の通り、掘っても掘っても岩ばかり出てきたそうだ。
 石工だった中岡さんは岩を砕き、一つ一つ積み上げて石垣をつくり、段々畑を築いた。季節の野菜を育て、山菜を採り、それらをリヤカーに乗せて、弥山を越えて宮島の町へ売りに出る日々。町で集めた人糞を船に乗せ、肥え桶を担いで畑に運び、肥料とした。自給用で米も作っており、当時も今も宮島で唯一の田んぼだ。實さんが亡くなった後しばらくは、スミエさん一人で野菜を作っていたが、10数年前に家を出て、現在は江田島で暮らしているそうだ。
 2012年12月、縁あってこの地で農業を始めることになった山本悟史さんと千内さんご夫婦は、美しい段々畑を残してくれた中岡さんに尊敬と感謝の気持ちを込めて、中岡さんの開拓精神を自分たちなりに受け継ぎ、育てていきたいという思いを込めて、この農園を「中岡農園」と名付けた。

 悟史さんは言う。「農業にはいろいろな考え方、やり方があって、どれが良い悪いではなく、自分たちはこの考え方、やり方が楽しかった。草や虫と一緒に過ごすことが気持ちいい。季節が変わり、畑の様子も毎日変わり、多品目を作り、全く飽きることがない。昨日も今日も明日も、全く違う毎日を生きている。千内と千草が許してくれるなら、僕は、明日死ぬとしても、畑に来て、いつもと同じことをして過ごすでしょう」。
 千内さんは言う。「私たちは難しいことは分かりません。でも、作物を見て、元気がないと思えば必要な水をやる。大切なのは、作物を人として見られるかどうか。気持ちが分かるか、声が聞こえるか。それができれば誰にだって農業はできる。でも、それが農業の難しさでもあります」。
 二人は言う。「大勢の方に応援してもらって宮島に来ることができ、大勢の方に野菜を食べてもらって農家を続けていくことができています。その方たちをガッカリさせないようにしたい、喜んでもらいたいと思う気持ちも、頑張れる原動力です」。

 人間も自然の一部。「欲」「楽」「利」など人間の都合で自然を変えようとするのではなく、自然を受け入れ、対話し、敬い、謙虚に、生き方を学ぶことが大切なのだ。
 中岡農園の野菜は「『僕らが作った野菜』ではない」と悟史さん。「宮島の自然と野菜自身の力に、僕らはほんの少し関わらせてもらっているだけ」だと。
 中岡農園の野菜は、自然と野菜が持つ力に任せているので、小ぶりなものが多い。しかし、宮島の自然から目一杯の恩恵を受けて、自らの持てる力を振り絞って育つ野菜たちは、見るからにたくましく生命力にあふれ、愛おしい。そして、その小さな体いっぱいにたくわえたパワーで、私たち人間にとびきりの元気を与えてくれる。

中岡農園公式サイト
http://nakaokanouen.main.jp/

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。