今田さんの実家は広島市安佐南区川内地区で祖父の代まで農業を営んでおり、高校生の時には時々手伝っていた。その時、出荷している野菜の価格を聞いて、自分がもらっている時給にも満たないあまりの安さに驚いたという。「こんな大変な思いをして、こんなに儲からない農業をなぜ続けているんだろう」と疑問しかなかったが、そんな今田さんに心境の変化が訪れたのは、二十歳の時だった。
大学に通っていた二十歳の年に祖父が亡くなった。川内地区は都市計画法に基づく市街化区域に指定されており、簡単にいえば「街を活性化させるために宅地化を推進しましょう」という方針のもと、農地はどんどん宅地へと姿を変えていた。農地も後を継ぐ者がいなかったため宅地に変わり、農業は廃業となった。
「農業がなくなれば地元産業が失われる。これはなくなってはいけないものなんじゃないかと、その時初めて、なんとなく感じたんですよね。川内は広島菜が特産です。今でこそ『広島菜を失うことは、文化的価値を失うこと』と言葉にできるけど、当時二十歳の小僧だった自分がそんなこと言えるはずもなく…」。
心の片隅にモヤモヤを抱えたまま、大学卒業後はホテルのアメニティーグッズなどを扱う企業に就職したが、2年目には農業へと気持ちが傾いていた。農地は失ったが、実家には家庭菜園ができるくらいの畑は残っていたため、祖母にほうれん草の作り方を教わり、近所の畑で広島菜の収穫を手伝い、県庁やJAで情報収集や勉強を進めた。
「面積、肥料代、出荷資材代、販売価格、労働時間など、経営指標というほどではないけど試算してみたら、サラリーマンの平均年収くらいは稼げるのではないかと。それで思いきって、勤めていた会社を辞めました」。いざ、農業へ。25歳の時だった。
机上の計算通りに事が運ぶほど、農業は甘くないことは重々承知。必要な技術を身に付けるため、安佐北区の白木地区にある広島市屈指の大規模農家、中川農園で1年間研修を受けた。
「中川農園は広島でもトップクラスの農家。中川さんは二十歳で単身ブラジルに転がり込むような人で、農業が好きとかいうレベルでなく、絶対に引き下がらない覚悟を持って農業に臨んでいるような人。昔ながらの職人気質で背中で学べというタイプ。だからおやじ(中川さん)に質問して答えが返ってきたことがない。質問しても『知るか!』と怒られる(笑)。だから聞きたいことがあってもおやじに聞くのではなく、まず教えてくれそうな人を探すことからスタート。それで見つけて聞きに行ったら『中川さんの方が詳しいだろう。私に聞くな』と言われ(笑)」。なんとも手厳しい…。
でも「おかげで困難があった時も自分で答えを見つける習慣が身に付いたのかもしれませんね。おやじも『困った時にすぐ人を頼るな』と鍛えてくれるつもりで…いや、そうじゃないかもしれないけど(笑)」。
育った野菜が半分腐ってしまったり、寒波で思うように出荷できなかったり、厳しい局面はこれまで何度も経験した。でもどれも「挫折と思っていない。失敗と思わず学びと捉え、次の対策を考えるだけです」。
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